服を大事にしている古着屋さんのラック構成を目指す
古着屋さんへ行くようになって、「服を大事にしているお店」と「そうでないお店」が目につくようになった。
服をラックにぎゅうぎゅうに詰めている店舗は、商品を取りにくいし、戻しにくく好きじゃない。ニットなんかは、その過程で伸びてしまっている商品もあったりして、こんなになってしまって果たして購入する人はいるのだろうかと疑問に思ってしまう。
私は、よく本を読むので、似たような状況を古書店等で見かけることはあったが、古着が気になりだしてからは、似たような感覚をここでも覚えるようになってきた。
そんなことを感じるようになって、ふと家の洋服たちを思い出す。
はたして、私は彼らを大事にしているだろうか。
そんな風に店舗の状況を自分の部屋へ置き換えてみると、以外にも自分も彼らに対して似たような態度に出てしまっていることに気付く。
私は今まで、そんなに服に興味が無かった。なので、数自体はそれほど多くない。だからぎゅうぎゅうに詰めているということはないが、雑に積んでいる自覚はある。洗濯後の服を、取り込んで「ぽいっ」としていることが、よくあるのだ。
可愛い服、お洒落な服を購入すると、ワクワクする。ただ、そんな気持ちも時間と共に薄れてゆき、次第に雑な扱いの仲間入り。
良くないな、と思った。
久しぶりに、引き出しの底にあるものたちを掘り出してみると、以外にも今の好みにどんぴしゃな子がいたりする。それと同時に似たような形や色ばかりを、選んで購入していることにも気付く。
そうだ。個人の好みなんて、年齢を重ねてくれば、そこまで大きく変化もしない。
暖かくなってきて、しばらくぶりに外へ出ると、可愛いお店や商品たちに心躍ってしまって、ついつい色々なものが欲しくなる。でもそれで彼らを手に入れたところで、また家にいるあの子たちと、似た扱いをしてしまうんじゃない?そう思うと、少し伸ばす手を躊躇する。
30年も生きてきたのだ。
生きるのに必要なものは、既に揃っている。心をキラキラさせるものたちも、ある程度は手に入れているのだ。
部屋を見回すと、キラキラたちが埃をかぶってうずくまっている。
古着屋のぎゅうぎゅうに詰まった洋服たちを思い出す。彼らは、輝ける場所を失っていた。
私の持ち物だって、まだ輝ける。
整えてあげよう。